さて、今日はひさしぶり(10日ぶりくらいか)に書くのでがちっといきまっせ。

ちょっとセンシティブな問題なので、最初に。
これは信仰そのものの議論ではなく、ゆってみりゃ論理学の実習みたいなもん。
まぁ、所詮は独り言だからそう害はない。
モンクがあるやつは最後までしっかりよんでからね。
ええっと、come2malay@time.net.my にお願いします。SPAMは帰ってくるみたいだから気をつけてね。^-^;

ちょっと危険な想定問答集:「宗教は何か」というよくある問いにむかつくあなたに。
「あなたの宗教は?」逆に聞き返してみよう。たいてい、イスラムだろう
「オラン・イマームか?(敬虔な信者ですか)」はい、と答えるだろう
「イスラムとはどういう意味か?」 平和だと答えるだろう。→服従という意味もあることを確認
「オラン・イマームにとって大事なことはなにか」→個人にとっては日常の信仰実践と絶え間ない知識の探求である。後者がとくに大事。他者に対しての「寛容」も大事であることを確認。
「絶え間ない知識の探求はなんのためか?」→イスラムの正しさを理解するため
(どんな返答にも切り返せる自信と余裕があれば「知識がなければイスラムの正しさは理解できないということか」とさらに聞いてもいい)
「ムスリムは旅人・貧乏人・異教徒などにはやさしく、自分には厳しくと教わるはずだが、実際にはそうでないのはなぜか? どうすればこれは解決できるのか?」
「豚を食べるのはハラームだが、差別はハラームではないのか?」
「なぜマレー人は他の人種を差別するのか?」 →具体例としてマレー人のみ受講可能なマラヤ大学の試験対策クラス、あるいはより有名な固定入学枠。→「不公平状態をただすため」というのがおそらく模範解答的にでてくる
「経済参加の不公平状態をただすNEPはまだしも理解可能として、個人の努力だけに完全におっているはずの教育になぜ底上げが必要になるのか?マレー人は生まれつき華人より平均的にIQが低いということか?」(かなりきれてくるかも)
「イスラムが正しく唯一の道=王道であるなら、その自信と余裕を態度でしめせばよいのに、なぜそんなにこわがったり怒ったり差別したりするのか?? オラン・イマームとはカサールではなくアサールで、どんなことにも動じず、自我をしっかりとコントロールできている人間ではないのか? そしてイスラムは寛容 open-mindedが基本ではなかったか?」
→実際、感覚的な比較の問題だが、一般的日本人のほうがはるかに自我のコントロールができる。というか、マレー人はあまりに自我のコントロールの訓練がされていなさすぎると感じる。これは(マレーシアの)イスラムの性質(生活の全領域にわたる雑多なルールで外部から自我をしばる)によるところがおおきい。

 で、結局おまえの宗教はなんやねん?といわれれば、僕は「知識と知性だ」と答えることにしている。信仰のレベルでは仏教徒だが、そういうのはつまらない。というのは、マレー人が宗教に対して一般的にいだいている理解=「宗教とは道徳で、行動基準である」というものにあわせるなら、仏教は個人の責任と自覚・努力にその部分をゆだねているため、彼らのステロタイプ(仏教徒=不道徳)を再確認させるだけになりくだらない。むしろ意外な答えをして相手の反応から知性を推し量ることぐらいは許されよう。一見矛盾している「私の宗教は知識と知性だ」という答えは実質、マレー人あるいはイスラムがもっとも恐がり嫌う「無宗教」(=無道徳状態)ということになるのだが、なぜかいままでそのことに気づく人はいない。知識と知性それ自体はイスラムにおいて唯一神の信仰の次にほぼ同時に必須とされており、圧倒的に善の価値が付与されている概念なので、彼らはそれ自体を問題にすることはまずありえない。ちょっと頭のまわる人間なら、ここでとうぜん「知識と知性も正しい信仰があってはじめて意味をなす」という理屈(タウヒード)をもちだして反駁できるはずだが、不幸にして今までそういう人間に会ったことがない。また、一番最悪な答えは「無宗教・無信仰」である。これもつまらない結果をまねく。

(14日に続く)

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